お話をうかがったスタッフの方

事務局長 米山 敏裕さん
YMCAに20年間勤めた後、開発教育協議会(現在の開発教育協会、以下DEAR)で
3年間開発教育※に携わり、その後1993年にLIFEのスタッフになったという米山さん。
「DEARで開発教育の大切さを肌で感じて、開発教育ができればいいな、NGOでも
なにかできないかなと考えていたところ、LIFEでやってみないかと誘われたことが
きっかけです」と米山さん。ご自身も1993年に行われたワークキャンプの参加者
だったということで、会員としてもLIFEと関わりがあり、活動も知っていたことが
決め手となったそうです。
※開発教育は、私たちひとりひとりが、開発をめぐるさまざまな問題を理解し、
望ましい開発のあり方を考え、共に生きることのできる公正な地球社会づくりに
参加することをねらいとした教育活動です。(DEARウェブサイトより)
開発教育ワークショップ:ちよだボランティアセンター主催
「夏の体験ボランティア活動」で中高生を対象にして実施した
『わたくしたちの食卓と世界』
「NGOで開発教育ができれば、ってことでLIFEに入ったんですがね、 なかなか時間が取れないこともありました」。と米山さん。 インドやインドネシアでのワークキャンプやスタディツアー、 そして現地の事業を進めることに忙しく、開発教育が脇に置かれてしまっていたことも あったといいます。 とはいえ、インドやインドネシアの問題だけでなく、日本や地球全体の問題、 グローバルイシューを日本の皆さんに伝えていきたいという思いのもと、 教材をつくったり、ワークショップをやったりしながら開発教育を少しずつ進めて きたのだそうです。
地球の友と歩む会が制作した開発教育教材「参加型ですすめる
12のワークショップ教材」
米山さん自身、インドやインドネシアにワークキャンプやスタディツアーを 行ったり、実際に現地に人を連れて事業をしたりする中で、 開発の難しさを感じると言います。「やっぱり現地の人たちにとって何がいいのか、 っていうのはなかなか見えないんですよね。それは、ぽっと行っただけでは わからないんです。やっぱり住んでいるわけじゃないから、 現地の人のニーズもさることながら、生活様式とか、価値観とか、 インドだったらカーストもあったりと、色々わからないことだらけで、 何が彼らにとって必要なのか、っていうのはなかなか見えない」。
インド・カルナータカ州ですすめてきた農業復興基盤整備事業を視察する
米山事務局長
だからこそ、どういう形がより良い支援なのか、ということは絶えず
自分に問い続けているそうです。「現地の方に主体性を持ってもらう
参加型農村開発などを取り入れていますし、でもやっぱり「参加」とか「開発」には
難しさがあってね、日々考えては悩んでいます。まあ、そんなことがあるから、
まだしばらくこう続けられているのかな」と米山さん。
JANICが開催するNGOスタッフ向けの研修会にも、時に参加者、
時に講師として参加してくれている米山さんですが、
「勉強だけではだめでね、現場を見る中で経験値が少しずつ
あげられているのかなって思います。」と語ってくれました。
インドネシア・スンバ島支援事業地マンダス村のホームステイ先で米を搗く米山 事務局長
現地の人の気持ちをいかにくみ取るかを考える一方で、
日本の中でも開発を人々に広める活動をしていて、国内外で開発に携わる米山さん。
どちらもおろそかにしないようにしている姿勢がすてきだなと思いました。
(JANICユース 広報チーム 権 智娜)
JANICユース http://www.janic-youth.org/(新しいウィンドウが開きます。)
お話をうかがったスタッフの方

事務局長 米山敏裕さん
「国際協力っていうと、『途上国に行って何かする』と考えがちだけど、一般の人にとってはあまり現実的ではないですよね。でもその代わりに、国内の活動に参加してほしい。ボランティアやインターン、報告会への参加・・。実際にどんな苦労があるのか、どんなことがうまくいっているのか、うまくいっていないのか、生の声を聞いてみることも一つの国際協力です」。
「水・緑・人」をテーマに活動している、地球の友と歩む会/LIFE。来年で活動25周年を迎えます。今回は事務局長の米山敏裕さんにお話を伺いました。
地球の友と歩む会(以下LIFE)の始まりは1986年にさかのぼります。当時、大阪に本部を置いていた農村開発を行うNGO「アジア協会アジア友の会」の東京事務所として活動が始まりました。その後「東京は東京で支援者を集めてやっていこう」と決意、1989年には独立して「地球の友と歩む会/LIFE」となりました。
LIFEでは、1990年にインドにて井戸掘りのプロジェクトを立ち上げました。インドの農村部では、川の水や池の水を生活用水として使っていましたが、清潔な水を得るのが難しいため住民の人びとの健康を害する状況だったのだそうです。

インド・マハラシュトラ州農村部にワークキャンプによって完成した井戸
この井戸掘りは日本人が現地に行って活動する、「ワークキャンプ」という形で年に1回2000年まで行われてきました。また1992年からは、同じくワークキャンプ方式でインドネシアのスンバ島にて現地のNGOと協力して植林を始めました。
「ワークキャンプに参加した人たちが、ボランティアやインターンとして会を手伝ってくれたり、理事になってくれたりして、活動を形つくってきました」と米山さん。ご自身も、ワークキャンプに参加した経験があり、それが今LIFEの活動に関わる大きなきっかけであったそうです。

インドネシア・スンバ島での植林ワークキャンプ
その後、インドでスタディツアーや女性の自立支援の活動、インドネシアでは植林に加えて農村復興の支援活動を始めましたが、「やっぱり主な活動は、給水、水関係で、『水・緑・人』というテーマを中心に活動を続けています」と教えてくれました。
「途上国の人々の生活を維持するには、緑があることがとても大切」という米山さん。その理由をさらに詳しく聞いてみました。
「植林をしないと、土地の治水能力が上がっていかないんです。それが植林をすることによって改善され、土などの環境基盤を整えることができ、農業ができるようになります。さらに、緑があれば地下に水が確保され、それが井戸水になって清潔な水が得られる、というように良い循環をするんです」。

スンバ島での植林に参加した小学校の生徒
逆に緑がなくなってしまうと、悪循環が起こるのだといいます。「雨が降らないと農業ができず生活できないため、みんな仕事を求めて都会に出る。でも多くの人が仕事を求めて都会に出てもみんなが仕事に就けるわけではないからね、スラム化してしまうんです」。
この夏に植林を進めていこうとしているインドのタミルナード州でもまだまだ植林が必要だと米山さん。「この先もそこに人が暮らせるような村にしていく」ために、現地のNGO、CIRHEP(シロップ)と協力して植林を進めているそうです。

インド・タミルナンドゥ州植林と有機農業事業地
緑を増やし、守ることは、温暖化などの地球全体の環境を守るだけでなく、そこに住む人の生活をも守ることになることがわかり、緑の大切さをより感じるようになりました。
(JANICユース 広報チーム 権 智娜)
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お話をうかがったスタッフの方

支援企画グループ 京井杏奈さん
シャプラニール=市民による海外協力の会(以下シャプラニール)で国内活動に携わる京井さんに国際協力に関わるようになったきっかけを伺いました。
「私は小さい頃に父親の仕事の関係でインドネシアに住んでいたんです。 10歳でインドネシアの空港に降り立ったとき、空港の外のきれいな道にはやしの木がずらっと並んでいて、 こんな綺麗な場所で暮らせてラッキーと思いました。でも、自分の暮らす街に近づくと、風景が変わって、車が止まるとたくさんの子どもたちが窓に近づいてきて、『これを買って、あれを買って』と寄ってきたんです。 その風景に衝撃というよりも疑問を抱いたんです。何で自分と同じくらいの子がこんなことをしてるんだろう、 学校は行かなくていいのかな、親はどこにいるんだろう、そもそも何をしているんだろう、そんな疑問ばっかり浮かびました」。 インドネシアで初めてストリートチルドレンに出会い、隣り合わせで過ごした2年間は京井さんの人生にとって大きな影響を残しました。
インドネシアでの2年間の生活の後、日本に戻った京井さん。日本に戻るとすぐに、勉強、部活、
受験に追われ、ストリートチルドレンのことも忘れかけていたそうです。「でも、、自分が大学で何を勉強したいか考えた時、
ふとインドネシアにいたあの子たちってなんであんな風になっちゃったんだろう、日本との違いは何なんだろうと思ったんです。
自分の目で確かめたいなって思いました」。
そんな思いをもって大学に入り、バックパッカーをしてアジアを旅したり、ボランティア活動を始めた京井さん。
国際協力と関わるもう1つのきっかけはワークキャンプを通して得た気付きだったと話してくれました。

ワークキャンプでお世話になったホームステイ先の子どもたちと
「大学在籍中にあるNGOのワークキャンプに参加ました。1ヶ月くらい孤児院でお手伝いをしながら過ごして、
孤児院で暮らす彼らが持つ心の豊かさをひしひしと感じたんです。過剰消費しすぎる自分のライフスタイルを
見直すきっかけにもなりました。その時の経験や出会った仲間や子どもたちが私の中でずっと残るものになったんです」と京井さん。

ワークキャンプの様子
その後、京井さんは企業に就職しました。しかし、数年後に国際協力のフィールドへと帰ってきます。 そのきっかけは何だったのでしょうか。 「企業での仕事にも慣れてきて気持ちに余裕ができてきた時に、あの時の気持ちをもう一度思い出したんです。 国際協力に関わることで自分の生活が豊かになるんじゃないかなって思ったんですよ。企業では毎日同じ仕事で、 ただ歯車のひとつになってしまったと感じていて、フラストレーションがたまっている状態でした。そんな時に、 もう一度国際協力に関わりたいと思ったのがきっかけですね」。
もう一度、国際協力のフィールドに戻った京井さん。数あるNGOの中からシャプラニールを選んだ理由について聞きました。
「理念にすごく共感したんです。自分たちが「援助する」のではなく、あくまでも主人公は現地の人だと考えて、
その生活を側面から応援している点です。それから、お互いを学びあう姿勢を大事にしているところ。
自分がワークキャンプに行った時に、何かしたいという思いで行ったけど、学んだことのほうがはるかに多かったように思うんです。
シャプラニールの理念に自分の経験と気持ちが一致したんです」。

バングラデシュ農村部に住む少女たちと
こうしてシャプラニールで働くようになった京井さん。しかしNGOで働くのは初めて、大変なこともあったと言います。
「企業では基本的には決まった業務をしていれば良かったけれど、今は担当の仕事にもいろんな種類の仕事があるんです。
たとえば、イベントの企画・運営、講座でのプレゼン、チラシ制作。最初は戸惑って、大変でしたね。
人の前で話すのも苦手だったし、イベントの企画・運営もやったことがなかったんです。でも、
今自分の目の前にある仕事を精一杯やろうと思って取り組みました」。
入職して2年たった今は、最初の「やったことのない仕事ばかり」という不安な気持ちよりも「いろんな仕事ができる」
というポジティブな考えに変わったといいます。

イベントでサリーの着付けとバングラデシュのお菓子作りをしました。
最後に京井さんに今後のシャプラニールでの夢と京井さん自身の夢を聞きました。
「自分がインドネシアで貧富の差に衝撃を受けたのが10歳のころで、今になってようやく
あのころのストリートチルドレンと向き合えているかなという気がするんです。
これからは、次の世代を担っていく日本の子どもたちに国際協力を伝えていきたいなぁと思っています。
小学生とか、日本や世界のことがまだよく分からない時期に国際協力に出会うというのはその子にとって
大きな影響力を与えると思うんですよ」。
毎年夏に行う、中学生、高校生を対象とした宿泊型イベントの様子
昔ストリートチルドレンと出会い交流したことがきっかけとなり、
今シャプラニールでストリートチルドレンや途上国の人たちを支援する活動に関わるようになったというお話からも、
出会った人とのつながりを大切にしたいというあたたかい思いが伝わってきました。
(JANICユース 小松崎 瞳)
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教育支援 まとめて募金
保護が必要な子どもの生活支援 まとめて募金
NGO個別募金:(特活)シャプラニール=市民による海外協力の会
お話をうかがったスタッフの方

支援企画グループ 京井杏奈さん
「海外協力というのは一方的ではなくて、お互いが学びあったり、助け合ったりして成り立つものだと思うんです。シャプラニールではその気持ちを大事にしています」。
南アジアの人々が直面する課題を「遠い」ものではなく、自分たちの課題として受けとめ、同じ地球に生きる、ひとり一人の「身近」な取り組みによって世界を変えるきっかけをつくろうと活動している団体があります。今回はシャプラニール=市民による海外協力の会 (以下シャプラニール)で国内活動を担当している、京井杏奈さんにお話を伺いました。
シャプラニールの立ち上げは1972年、バングラデシュがパキスタンから独立した直後のことでした。
「当時のバングラデシュは物資が不足していて混乱状態だったんです。その時に日本の青年ボランティア50数名がバングラデシュ復興農業奉仕団として派遣されました」と京井さん。そこで彼らが現場を見て感じたことは、一時的な支援への疑問だったと言います。「疑問を持ったメンバーが日本に戻り、現地に本当に必要な支援は何だろうと考え、今のシャプラニールの前身であるHBC(ヘルプ・バングラデシュ・コミティ)を作ったんです」。

耕運機の指導をする様子(復興農業奉仕団)
「当時は、救援物資が届くのは都市部の一部の人だけで、本当に貧しい村の人たちまでには支援が届いていないという状況でした。そんな状況を見て、本当に必要な人に支援を届けたいという思いからHBCは本格的に活動を開始したんです」と京井さん。
また、「HBCのメンバーはバングラデシュの人々の人情や美しい自然の豊かさを感じて、バングラデシュという国そのものに魅力を感じたんですね。そういう豊かさを日本に伝えていきたいというのも彼らの目的の一つでした」。

新宿の歩行者天国でバングラデシュ救援を訴える
初めて支援を行ったのはバングラデシュでの農村支援でしたが、結果として失敗に終わってしまいます。
「街頭募金を集めて、そのお金でノートと鉛筆を村の子どもたちに渡しに行ったんですね。でも、次の日に市場に行ったら、渡したノートと鉛筆が売られていました。その状況を見た彼らは、一方的な支援をしてしまったことを反省したんだそうです。結局、子どもたちはノートと鉛筆より、その日を生きる食べ物を買うお金が必要だったわけです。その時から、『彼らにとって本当に必要な支援を』というのは今でも変わらない思いとしてあります」。
シャプラニールでは、「取り残された人々のエンパワメント」を活動目標のひとつに掲げています。今、バングラデシュでは経済発展が進んでいますが、貧富の差が広がり、経済発展から取り残されてしまう人々がいます。たとえば立場の弱い女性や夫をなくした女性、障がいを持った人々や、働いている子どもたちです。

障がい者への差別撤廃を訴えるキャンペーンの様子
中でも最近、力を入れているのが家事使用人として働く少女たちの支援だと、京井さんは教えてくれました。
「10年くらい前から都市部でのストリートチルドレンへの活動が始まったんですけど、活動が進むにつれて、施設に来る子どもたちの多くが男の子だということに気付いたんです。調査をしてみると、女の子たちは家の中に閉じこもって家事使用人として働かされているケースが多いということが分かりました。家の中で働く少女たちへは外部からの接触が難しいため、政府や他のNGOもあまり支援をしていない状況でした。取り残された人々だったのです」。

雇い主の家で拭き掃除をする少女
シャプラニールでは2006年から家事使用人として働く少女たちへの支援を行っています。
「現地の4つの支援センターでは、文字の読み書きや計算、性教育、レクリエーションなどに加え、家事のトレーニングもしています。児童労働を促進しているのではないかと言われることもありますが、今現在家事使用人として働いている子どもに対し、すぐに仕事をやめさせるというのはとても難しいことなんです。なので、まずはその子たちが働きながらでも学ぶことができ、怪我をしないで安全に仕事をし、自分を守れるようにすることを最優先として活動を行っています。新しいことが上手にできるようになることは少女たちの自身にも繋がります」。

先生が読み聞かせ
支援センターでは少女たちに来てもらえるような楽しい工夫がしてあります。
「他人の家の中で仕事をしたり、生活をしている彼女たちは周りとの触れ合いがあまりないんですよ」と京井さん。「支援センターは同じ境遇の子どもたちと触れ合える場所なんです。子どもらしい時間が持てるよう、レクリエーションも行われていて、去年は運動会をしました。みんなで絵を描いたり、文字の読み書きを練習したりもします。最初は自分の名前から、そして住所。1つ1つベンガル語の文字から始めます」。

ミシン研修の様子
支援センターが担うもう一つの役目は教育。性教育から保健衛生までその範囲は多岐にわたります。
「親元を離れて一人で住み込みで働いている少女も多いので、何がよくて何がだめなのか分からない状況の少女たちもいるんです。ごはんを食べる前には手を洗うこと、体を清潔にすることなど、私たちが親や学校で教えてもらったことを知らない少女たちもいるのでそういった保健衛生も教えています」。彼女たちが村に帰ったときに友達や兄弟にここで学んだことを教えるという役割も果たしているのだそうです。

運動会で徒競走している様子
本当に必要な支援に対するまっすぐな気持ちと、それを反映する調査力。家事使用人の少女たちの1番必要なものを考えることができるシャプラニールならではの支援に大きな優しさと強さを感じました。
(JANICユース 小松崎 瞳)
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教育支援 まとめて募金
保護が必要な子どもの生活支援 まとめて募金
NGO個別募金:(特活)シャプラニール=市民による海外協力の会
お話をうかがったスタッフの方

海外事業担当 佐藤 奈緒美さん
「実は私の母は、ICAの理事長です」。
佐藤さんは子どもの頃から各国のICA事務所で、さまざまな国の方と生活していたといいます。「その頃から、国や食の違いについて興味がありましたね。今はもう感じませんが、小さい頃は途上国に行くたびに違和感を感じていたのも確かです」
。
一度は一般企業に就職し、再びICAに関わるようになったのは2002年。
「最初はお手伝いで、3ヶ月だけという感じでした。最初の仕事は、ベトナムの僻地の小学校に教材を届けること。首都ハノイから車で5時間、そこからいかだに2時間乗って、山を2時間登ってたどり着きました。とても疲れましたが、そこには色とりどりの衣装に身をまとった少数民族の喜んだ顔があったのです。その経験はなんとも言えない衝撃でした。私は現地にいる人をかわいそうと思ったことはありません。むしろ、文化に自信や誇りを持っているように見える。それから各国を周り、国際協力の役割を観察して、興味を持つようになりました。国際協力事業を経験して8年ですが、今も日々新しい出会いと発見でいっぱいです」。
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| 2002年ベトナム北部のムォン族が住む村の 小学校に教材を運んだ時の様子 |
多くの児童が教材を見に小学校へ押し寄せた |
年に1度、企業関係者を連れて現地に行くツアーの同行をしているという佐藤さん。
「ツアー参加者は20名ほどで、現地での反応は人それぞれ違いますが、みなさんすごく感動した、勉強になったとおっしゃいます。途上国と聞くと何もないように思われがちですが、そうではありません。例えば、現地の人の笑顔だったり、家族愛、懐かしさ、人間臭さだったり、感じるものがたくさんあります。支援を提供しているけれど、実は日本の私たちも心が洗われる経験を得たり、初心に戻ったりする。どちらもお互いに提供できるものがあると思いました」。
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| 北部の少数民族タイ族とモン族と一緒に 2000本の植林に成功 |
少しずつ姿を現し始めた恥ずかしがりやのモン 族たち |
2007年にケニア人とご結婚された、佐藤さん。文化の違いからくる、新しい発見も多いといいます。夫から "アフリカ人として生まれた為、実現が難しい事リスト"を見せてもらった時のことを話してくれました。
「そのリストを見て、とても面白いと思ったのと同時に、日本人として生まれてきたことに感謝しないといけないと思いましたね。たとえば、ケニア人は日本人と比べて行動できる範囲が10分の1ぐらいではないですかね。教育を受けたとしても、日本人のようにアメリカに留学したり、旅行に出かけたり経験を積む機会を作ることがとても難しいのです。だけど、時々はっと気付かされることもあります。私にとっては何気ない発言なのですが、主人にとったら日本人のほうがケニア人よりも上だという発言に聞こえる場合があるというんです。相手の事を思って発言した言葉も、人によっては恩着せがましく聞こえるみたいです。そういうことって指摘されるまで気付かないものなんですよね。そういった発言を振り返るのを、忘れないようにしたいと思うんです。これが、コミュニケーションの面白いところでもあるのですが」。
今までさまざまな国で活動を行ってきた佐藤さんに、苦労したことを聞きました。「国の文化に慣れるのに、私の場合、1ヶ月はかかることですね。でも2~3ヶ月もいると、そこの本当の文化も分かるようになります。日本にいても同じことかもしれませんが、建て前と本音といったようなものも分かってきますね」。
それでもこの仕事を続ける理由は何なのでしょうか。聞いたところ、とてもストレートな答えが返ってきました。「人が好きなんです。ここにいる人は何を言われると喜んで、何を嫌がるのか。そういったことを考えながら人を観察したり関わっていくことが好きなんです」。

マサイ族の女性と一緒に
最後に、佐藤さんに今後の夢をお伺いしました。
「ICAとしての夢は、無償支援という仕事がなくなることですね。そうなった時は、フェアな国際協力やビジネス、相互裨益活動などが盛んになると思うのです。個人的には、今1歳2ヶ月の子どもがいるのですが、ICAでの仕事を続けていきたいと思っています。国際協力のフィールドでは、出産をするとやめてしまう方も多いのですが、女性でも続けられる仕事として、全力で取り組んでいきたいと思っています」。
現地の人の貧しさをかわいそうと思うよりも、彼らの感じている誇りに興味があったり、彼らが喜ぶ姿に惹かれて国際協力に携わるようになったという佐藤さん。佐藤さんの「無償支援という仕事がなくなればいい」という夢にとても共感しました。
(JANICユース 広報チーム 権 智娜)
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お話をうかがったスタッフの方

海外事業担当 佐藤 奈緒美さん
「募金という方法を通じて、募金した本人も支援プロジェクトに関わっているんだということを理解してもらえたらうれしいです」。
"人間は地域及び組織最大の資源である"という理念と、世界中30ヶ国にひろがるネットワークを持つICA文化事業協会(The institute of Cultural Affairs; Japan Global Partnership Center; ICA、以下ICA)。今回は海外事業担当の佐藤奈緒美さんにお話を伺いました。
ICAの起源は、1960年代のアメリカにあります。「あるアメリカの白人牧師がシカゴにある黒人コミュニティーに入ったら、人種の違いによって、会話やコミュニケーションがほとんど出来なかったという経験をしました。その時に、お互いに意思疎通を図るための参加型のワークショップが生み出された、それがICAの活動のきっかけです」と佐藤さん。
人と人とがどうやったらコミュニケーションが取れるのか、という思いをもとにスタートした団体なのです。
現在は、ベトナムでの環境教育プログラムや、メキシコでの母と子の生活改善プロジェクト、ケニアでの植林事業など、アフリカ・アジア・南米をはじめとする世界中で活動を行っています。
現地の人のニーズのあるところを支援するため、支援場所は各国の状態を見ながら変わり、プロジェクトの内容もさまざまです。その中で変わらないものは、「現地の人の意見や考えをメインにする」方針だといいます。プロジェクトを行う際は、基本的に現地調査で現地の人のニーズを把握し、一度日本に戻って熟考、それからもう一度現地に行くというステップを必ず踏んでいるのだそうです。

ニーズ調査は、現地の10代~60代までを対象として行います
2010年はICAにとって、自然災害での幕開けでした。年が明けてから、ハイチ、チリ、中国で連続して地震があり、緊急支援活動を行っています。今回佐藤さんは、ハイチでの支援活動について話してくれました。
「1回目に2人の職員がハイチに向かったのは、2月上旬のことでした。現地に着いてからは、1,140世帯に食料を配布しましたね。しかし、支援物資のゴミが悪臭を放っていたり、トイレや水などの保健衛生が整わずに状況を悪くしていたり、余震によるトラウマで敢えて外で避難生活をする人が大勢いたり。ともすると他の支援団体が物資配布に夢中になってしまいがちな中、そういったことはハイチでは盲点のように思えました」。
その盲点を埋めるために、2回目の救済としてハイチに再度職員の方が向かい、今も活動中だといいます。「今は、特別養護施設での支援を行っています。もちろん、物資を与えるだけという状況を避けることも大事なことですが、働けない人がたくさんいるのもまた事実です。老人であったり、親を亡くした子どもであったり。ICAでは対象を決め、支援を行っているんです」。
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| 震災から3ヶ月たっても、被災生活を送っている |
崩壊した養護施設の患者たちは野外で 被災生活を送っている |
もちろんICAには、継続的に支援しているプロジェクトも多くあります。その1つが、2006年から始めたケニア南部での農業プロジェクトです。
「ケニア南部には、昔から遊牧生活を送るマサイ族がいます。でも政府の保護区拡張整備により生活範囲が限られ、定住化に向かいつつあります。そこで定住しても生きていくために、持続可能な農業プロジェクトを行うことになったのです」。
しかし、マサイ族の人々には農業経験がないうえ、この地は雨が降らない乾燥地帯。どうやって、そのような中でプロジェクトを進めたのでしょうか。答えは、地道な研修と水の確保にありました。
「地域的に雨が降らないこともあって、貯水池を作ることになりました。ケニア東部で成功していた直角型貯水池を作ったのですが、実は2年目に崩れてしまったのです。東部で成功した貯水池も、南部のほうが土が固く質が違いました。おわん型のほうがデザイン的に適していたのです。同じ国とはいえ、適するもの適さないものがあるのですね。これも現地の人の助言があり改善に向かっています」。
貯水池が出来てから3年間も雨が降らなかったのですが、2009年の末にようやく雨が降って、今はフォローアップの事業を行っている最中だそうです。

ケニア事業地(カジアド県)の村にて設置した貯水池
また、こんな面白いディベートもあったといいます。
「あるとき、マサイ族への農業支援プロジェクトは、彼らの文化を壊すんじゃないかという指摘があったんです。でも、まずは食べ物がなくなる状況でそんなこと言ってられなかった。それに、現地で彼らに接すればわかることですが、そもそもプロジェクトで壊れてしまうほど、彼らの文化は弱くないんです。マサイ族という誇り高い自然共存型の文化は農業をはじめても残るのです。」
現地に密接に関わるICAだからこそ、判断できることなのかもしれません。

気候変動研修のあと、苗木を植林するマサイ族の女性
ICAだからこそできることは、何ですか。そう尋ねたところ、佐藤さんからICAの人ならではの答えが返ってきました。
「コミュニケーションに、ツールを使うことです。ICAでは独自のワークショップ手法があり、これは現地調査の後、プロジェクトの計画をつくるときに使われます。例えば、50人いたら50人の意見がありますよね。その意見のいいところをまとめていく。この作業には、50人全員が関わります。このたくさんの意見が出てくる過程が、ICAのユニークなプロジェクトを生み出すんです」。
自分たちで決めていくのではなく、現地の人の意見をきき、また選択権を持ってもらうこと。それは"人は最大の資源である"という、ICAの人間中心の理念を反映しています。
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| 参加者が長所・短所を確認し、事業のチーム 活動で活かす研修(パーソナルスタイル) |
「マサイの文化と農業」というワークショップ を実施した時の模様 |
"人が最大の理念である"というICA文化事業会。明るい人柄の佐藤さんの話し方から、世界各地にある拠点で現地の人と楽しみながらプロジェクトを作り上げていく様子が目に浮かんできました。
(JANICユース 総務チームリーダー 吉野宮奈)
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お話をうかがったスタッフの方

国際協力部 海外プロジェクト担当部長 長 宏行さん
長さんご自身の、オイスカに至るまでの道のりを伺いました。「学生時代から国際協力は全然関心なくて。ただ小学校の頃から海外いきたいという気持ちが強くありまして、自転車であっちゃこっちゃ海外へ行って、やっぱりいいなと思っていました」。
海外へ出かけるうちに、ただの旅ではなく住んでみたいという気持ちが強くなり、青年海外協力隊でアフリカへ。しかし2年間だけの協力隊生活にどこか自己満足的なところも感じ、期間延長をすることなく帰国します。

青年海外協力隊員としてアフリカへ
「帰国して、国際協力に興味はあったんだけど、そんな勇気もなくて、とりあえず当時中途採用で募集していた航空会社に入り、貨物関係の仕事に就きました」。しかし大企業での仕事を通して「幸せとは何か」という問いに触れられることはなかったと長さんは言います。
「もうちょっと何が幸せかを追求したり、環境問題をやってみたい、やっぱり仕切り直しそうと思ってオイスカ来ました。僕としてはやっぱり草の根の人々と接するような国際協力したいなということもあって、NGOを選んだわけです。」
途上国における環境問題という道を選んだ理由には、かつての自転車旅行と協力隊での経験が影響を与えていました。好きな自然が破壊されていることを目の当たりにして悲しい思いをしたこと、やはり草の根の人々と暮らす生活が良かったこと。そして「(途上国の人々は)目がほんとに綺麗だし、人間として生きてる感じがする。何かしたいな、してあげたいな」と思ったことだです。

中部タイでの環境教育プロジェクト
オイスカに入って最初の仕事は、「子供の森」計画という緑化教育でした。子供自身の手で植林をしてもらうことで、様々な学びを導きます。参加した子供からオイスカの研修生、そしてスタッフとなったケースもあり、長い目で見ればこれも人材育成の一つといえます。長さんは実際にフィリピンに1年間駐在し、現地コーディネーターの経験もされたそうです。
「NGOの良さっていうのは、フレキシブルなところです。自分がどんどん意見を出したら認められるような柔軟性がありますね」という長さん。現在では、人材育成や植林プロジェクトなど海外プロジェクトのまとめ、形成、管理・運営の評価、全体のポリシーづくりなどのマネージメントをしています。

「子供の森」計画。学校を拠点に行われている。
長さんご自身の展望についても、聞いてみました。
「オイスカの活動は、国際協力のひとつのモデルです。これからは普及するという役割も担っていかないといけない。そのためにきちんとやったことを評価して、調査して、普及して、PRにも使う。次の事業や他のNGOに生かしてもらえるような、例えば論文みたいな形にするとかね、そういうことも必要でしょう。そういった評価・調査っていうのに力を入れていきたい」と話してくれました。

パプアニューギニアでの農業研修
また、若い人たち、今後のNGOの担い手へのメッセージをいただきました。
「目標も夢も待ってないんですよ。自分が追っかけて探してかないと。それを達成するには短いスパンでなく、10年スパンで考えてほしい。主体性を持って目標に向かって努力する人は、必ず伸びています。」。長さん自身も、幸せとは何か、人生とは何か、と心に語り続けていたことが、最終的にオイスカでの活動に導いたのだと話してくれました。
<本部事務所でのボランティア>
活動内容:広報誌の発送作業、ベルマークの仕分け作業、書き損じはがきの整理
活動時間:平日、第1、3、5土曜日の 10時~17時の中でご都合に合わせた時間
参加方法:参加希望の方は下記のお問い合 わせ先まで、活動可能な曜日と時間帯の目安をご連絡ください。地道な作業ですが、オイスカの活動を支える大切な仕事です。みなさまのご参加お待ちしております!
【お問い合わせ先】
オイスカ東京本部(担当:啓発普及部・ボランティア担当)
〒168-0063 東京都杉並区和泉2-17-5(地図はこちら)
TEL: 03-3322-5161
E-mail: webmaster@oisca.org
その他、様々な形のボランティア・インターンを募集しています。詳しくはこちらにアクセスください。

事務所でのボランティア風景
「夢や目標は待ってはいない」「一生勉強」と語ってくださったことが印象に残りました。様々なNGOがあるなかで互いのネットワーク形成が進んでゆければと思います。
(JANICユース 総務チーム 谷本)
JANICユース http://www.janic-youth.org/(新しいウィンドウが開きます。)
お話をうかがったスタッフの方

国際協力部 海外プロジェクト担当部長 長 宏行さん
「有機農園ファーミンという団体から、NGOサポート募金を通してご寄付をいただいたんです。その名の通り有機農業でお米をつくっていて、それがご縁でお米を買ったんですけどほんっとにおいしいんですよ。それから色々連絡を取ったりもしています。こんな風にNGOサポート募金を通してどんどん輪が広がる、それがほんとうに嬉しいなと感じています」。
50年の歴史を経て、現在では26の国と地域に事務所を携える財団法人オイスカ(以下オイスカ)。日本発の国際NGOとして日本のよき精神や文化を基盤とし、アジア・太平洋諸国を対象に農業・環境分野での人材育成及び植林活動を行っています。今回は国際協力部部長の長さんにお話を伺いました。
オイスカが設立されたのが1961年。その背景には、世界的な変動がありました。「60年代の初め、東南アジアの国々がだんだん独立し、アメリカや日本に見習って経済力をアップするぞ、という目標を掲げていたんです」。しかし、当時のオイスカの創立者はこれでは物質中心主義になってしまという危機感を感じたといいます。「これではいかん、もう少し心のバランスや人間のバランスを考えた発展が必要だ、と考えたんです」。
そこで、国学や古神道を学んだ創立者が呼びかけ、世界各国から宗教人や大学教授、マスコミ人などの指導者が参加して5回にわたる「精神文化国際会議」というものが開かれました。これがオイスカの始まりでした。

1993年に国連地球サミット賞を受賞
この会が結成されてすぐに、インドで大飢饉がありました。現地の会員からの支援要請に応じて日本から人を送った、これがオイスカの実質的な活動の始まりでした。
「それでその人っていうのが、農家のおじさんたち、つまり、篤農家の方々なんです」と長さん。というのも、言葉の壁はあれども農業に関しては農民が一番よくわかっているからです。日本から何十人もの農民を送り込んだのです。
「それはもう大変だったと聞きました」と長さん。現地大使館からの反発も大きかったそうです。しかし、結局はこれが功を奏しました。「インドなんかはやっぱりカーストがあって、普通は入らないわけですよ、田んぼとかに。周りはみんな見ていたけど、日本から来た彼らがどんどん作業して、翌年全然収穫量が変わってくるわけですね。住民の人たちも理解して、これはすごいということになりました」。

インドへ篤農家を派遣
オイスカの活動が農業を中心である理由を聞きました。「有機農業の技術ももちろん伝えますが、それよりも我々が重視しているのは、農業を学ぶことで人ができていくこと。心のバランスのとれた人材の育成に重きを置いています」。だからこそオイスカでは農業の研修事業を開催しているのだと長さんはおっしゃいます。

野菜栽培の研修風景(東ティモール地域開発研修センター)
研修では技術指導はもちろんのこと、グローバル化の世の中だからこそ指導していることがあるといいます。「途上国ののんびりとした空気の中での相互扶助だけでは、立ち行かない世の中になっていますね。ある程度バランスのとれた発展を彼ら自身も遂げないといけない。自分たちでタイムマネージメントも出来るように、規律訓練もしっかりしています」。
研修期間は基本的に1年間。24時間インストラクターと合宿所のような状況で、共に試行錯誤を繰り返しながら生活します。研修という通過点を通った後は自立発展で頑張ってもらうというのがオイスカの考え。お金は与えないがノウハウだけは教える。現地に戻って自主的にやっていることを聞くと、実感する喜びも大きいのだそうです。

タイでの有機農業普及プロジェクトの様子
人材育成を行う上でのジレンマとなるのは、資金の問題です。「人材育成は成果が見えにくい。確実に芽は出るわけですけど、出てくるのが10年後だったりする」。
人材育成には時間が必要だと長さんは実感しています。「植林事業などいろんな事業やるにしても、やっぱり人が重要なんですよね。特定のプロジェクトを行う際も、支援者には必ず人材育成の要素が入ってくるということをご理解いただいて、その経緯を見ていただくように工夫しています」と長さんは話してれました。

海外体験ボランティアの様子
オイスカの活動の中には、マングローブの植林事業があります。今でこそ世界的にみても突出した成果を出していますが、スタートした1990年代の終わり当初はゼロからのスタートだったといいます。
「マングローブ植林事業っていうのは、いろいろな側面があるんですよ。当時は技術的にも十分な研究がなされておらず、団体内ノウハウの蓄積もなかったので、自分たちで試行錯誤しながら進めてきました。さらに、技術面だけでなく、住民への環境教育やマングローブ林とともに生活していける生計向上の支援など、対象地域のコミュニティに対する活動も不可欠なんです」。
また、成功例のある他国の人々とも学びあう機会を設けるなどしながら、現在の総植林面積4,600ヘクタールへと活動をつなげていったのです。「最近では顧問の先生にも現地に行ってもらって評価をちゃんとしてもらって、それを発表して次の活動へ生かすような形にしていこうとしています」。技術や生態系の知識だけでは成り立たない植林事業。だからこそ我々のようなNGOが発揮できるところがたくさんあるのだと、長さんは話してくれました。

バングラデシュ・チッタゴンのマングローブ植林
オイスカの活動の根底にあったものは「人材育成」でした。活動で育っていった人たちが故郷に帰って活躍されている姿をお聞きし、人材育成の大切さ、素晴らしさを教えていただきました。
(JANICユース 総務チーム 清水)
JANICユース http://www.janic-youth.org/(新しいウィンドウが開きます。)
お話をうかがったスタッフの方
事務局 中村哲也さん
中村さんが国際協力に興味を持ったきっかけは、大学浪人中に見たテレビの開発途上国のドキュメンタリーだそうです。「特に紛争地の様子を見て、子どもが傷つけられている様子から世の中の不条理に憤りを感じて、勉強するんだったらそういうことに繋がるようなことを勉強したいなと思いました」。
大学では、福祉を勉強する学部に入った中村さん。
「対人援助という意味では国際協力と通じているかなと思いました。その後より国際協力と関わっていくために、フィリピンで活動をしているサークルに入りました。大学3・4年になって自分の進路を考えた時に、職場として国際協力をやっているところを見てみたいなと思いました。自分の専攻の勉強とそれまでの活動経験から『子ども』・『心理』・『国際』という3つのキーワードが自分の中にありました。そのキーワードを元にインターネットで検索をしたら、パレスチナ子どものキャンペーンの情報にたどり着いたんです。」
大学4年からパレスチナ子どものキャンペーンでボランティアをすることになったそうです。またここには、紛争地域でのドキュメンタリーに衝撃を受けた中村さんの紛争地への思い入れは強さもうかがえます。「ここでのボランティアを開始する決め手となったのは、それまで活動していたフィリピンと違って、支援対象としているのがパレスチナという紛争地域だったからです」。

緊急支援活動の一環で行われる食料配布
紛争地域で活動することに対して、恐怖は感じなかったのか尋ねてみました。すると、「最初はありましたね。友達とか親からも凄く反対されました。でも現地に行くようになってわかったのは、行く人みんなに命の危険があるわけではないこと。戦争や流血がニュースでクローズアップされるために、行ったら誰もが命の危険にさらされてしまうような印象がありますが、問題はそれだけではなく、パレスチナの人たちが軍事占領や封鎖という形で日常的に抑圧されながら、家族のために子どものために生活を立てていかなくてはならないという厳しさ。多くの人が大変な現状の中で生きていかなくてはならないから問題なのだということがわかりました。現地の人の生活に触れ、行ってすぐに殺されてしまうというような不安は感じなくなりました。今でも現地に行くことには不安はないですね」。
また、それまでフィリピンに行った経験から、中村さんは危機管理の重要性も感じていたそうです。「現地の人々の中にどういう入り方をするかで危険というのは全然違ってくる、現地との信頼関係をつくってから活動を始めるのと、何も知らないでぽんとそこに入るのとでは全然違う。どういう危機管理をしていくかというのは非常に大きいと思いますね」。
ボランティアを始めてから数カ月後、パレスチナ子どものキャンペーンが開催していたスタデイーツアーに参加して、ずっと見たかった紛争地に行く機会を得た中村さん。その時の心境を伺ってみると「よく現地に行って実際に自分の目で見てみないと分からない、っていう感覚があるじゃないですか。でもその時は自分の目で見ても、いまいち分からなかったんですよね。何が問題なのかなかなかピンと来なくって」と意外な答えが返ってきました。
そして、「少し見ただけでは分からない問題だということを痛感して、腰を据えて取り組んでみようと思いました」と続けました。この訪問がきっかけになって、卒業後1年の現地派遣のインターンを経て、正式にスタッフとして働くようになったそうです。

ガザ地区で生活のために廃品を集める子どもたち
子どもを支援していきたいとずっと感じていた中村さんにとって、パレスチナの子どもたちとの交流は、様々な苦労の中でモチベーションを保っていく源となっているそうです。
「子どもと触れ合っているときは楽しいし、こちらが元気づけられますね。パレスチナの子どもたちは、外の世界とほとんど交流することがないなかで暮らしているので、僕みたいな東洋人の顔を見るとテレビに出ているジャッキー・チェンがきた、空手やって、とかいって凄く遊ばれるんですよね。自分との交流が、彼らの子ども時代のいい経験になればいいなと思っています」。
また活動の中で、自分と同じように子どもたちのことを思っている現地のスタッフの人や子どもたちの両親や先生との交流も、活動の原動力となっているみたいです。「たくさんの大人があの厳しい中で頑張っているのだから、自分も頑張らないとな、と勇気付けられます」。

幼児と母親を対象にした心理サポート事業
最後に、中村さんに今後取り組んでいきたいことについてお伺いしました。
「まずは語学をブラッシュアップしていきたいですね。現場では英語・アラビア語共に必要とされていますが、アラビア語は書き言葉と話し言葉が違う難解な言語なので、少しずつマスターしていきたいです。それから、ろう学校の支援をしているために手話にも興味があります。また、最近 "パレスチナの伝統舞踊チーム"を結成したのですが、パレスチナの踊りや歌がなかなか難しくてですね。スキルを上達させて、日本で講演をするときに披露して、文化理解活動もできたらいいなと考えています。あとは中東の暑い現場では体力がものをいうことが多いので、運動をしっかりして、自分の体調をしっかりキープできるような体力をつけていきたいですね」。
色々なことに挑戦していこうとする中村さんのアクティブな一面を聞くことができました。
中村さんが支援活動を通して感じた自分の足りない部分を積極的に習得していこうとする姿勢に本人が言う「限界を作らない支援」を追求していく姿が窺えて、とても素敵だと思いました。
(JANICユース 総務チームリーダー 吉野宮奈)
JANICユース http://www.janic-youth.org/(新しいウィンドウが開きます。)
平和構築・難民支援 まとめて募金
保護が必要なこどもの生活支援 まとめて募金
NGO個別募金:(特活)パレスチナ子どものキャンペーン
お話をうかがったスタッフの方
事務局 中村哲也さん
「パレスチナの問題の中で、現地の人々が思っていること・感じていることの一つは、『孤立感』や『忘れないで欲しい』ということです。人がこれだけ殺されているのに、どうして誰も止めてくれないのだろうか。ずっと封鎖が続いているのを、どうして誰も解除しようと声をあげてくれないのか。自分たちは世界から見捨てられているんじゃないか、と思うわけですよ。そういうなかで、『いやそうじゃないんだよ』、と伝えていくことはとても大事だと思うんですね。それは直接な声でもできますし、日本の政府に訴えかけるという形でもできます。お金で具体的な支援の形にして伝えていくというのもとても大事です。ご寄付いただいたら、その方からの『忘れていないぞ』というメッセージもあわせて現地に伝えていきたいです。」
パレスチナ子どものキャンペーンは、1986年に設立されました。なぜパレスチナ難民の子どもたちに焦点をあてたのでしょうか。
「パレスチナ難民は、1948年には難民になっている人たちのことを指しています。国連の難民条約はその後に制定されたため、彼らは国連等の支援の枠から外されてしまっています。そのような中難民として生まれ育っていく子どもたちに、寝たり食べたりする環境を確保するだけではなく、希望を与えていけるような支援をしたいと考えました」。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の統計上では、世界中の難民の約25%もがパレスチナの難民なのだそうです。

レバノンでの補習クラス
パレスチナ子どものキャンペーンは、パレスチナ自治区のガザやヨルダン川西岸、レバノン国内のパレスチナ難民キャンプで、 子どもたちへの支援を行っています。破壊されたり、封鎖されている地域の子どもたちに希望を与えたい、という意思は、2006年6月にガザ地区にオープンした"ナワール子どもセンター"にも強く表れています。
ナワール子どもセンターは、学校で行われていない文化活動や学校教育の補習を行う場所として建てられました。「子どもたちの中には、学校があまり楽しくないっていうイメージがあるんですね。例えば子どもの人口が多いパレスチナでは、生徒が一教室に50人ほど詰め込まれて、それでも数が足りないので午前と午後の二交代制になっています。そうなると授業時間も足りませんし、体育や音楽、図工といった教科やクラブ活動に参加する機会もありません。ガザが封鎖されて、学校でも家でも新しいことや楽しいことが何もないなかで、ストレスをいっぱい溜めてエネルギーが有り余っています。子どもセンターでは、伝統舞踊、スポーツ、音楽、演劇、工作などの活動に、子どもたちは元気いっぱいに参加していますよ」。
その雰囲気作りの秘訣は、"参加型"という子どもたちの主体性を重んじるところにあるようでした。「ここでは、子どもたちが主役です。彼らが周囲の仲間と楽しく活動を作っていくというのが重要だと思っています。例えば昨年末、新型インフルエンザが流行した時に、インフルエンザの予防について学習していこうとなったのですが、色々な案を子どもたちが出し合った結果、皆で演劇を作っていくことになりました。」
また、子どもセンターは青・黄土色の建物で、それはガザの砂浜と土と地中海を表しているそうです。「"可哀そうな人"としてパレスチナの人たちを届けるのではなく、ガザの美しい姿を表すことで、彼らが持っているきれいな感覚をアピールしていこう」という思いからデザインされたそうです。

青色と黄土色の子どもセンターの外を駆け回る子どもたち
パレスチナ子どものキャンペーンは、他にも緊急支援、教育、保健、人権など、様々な支援活動を行っています。1992年には、ガザで初の聴覚障がい者のための施設「アトファルナろう学校」が設立されました。15年以上続いているこの学校は、スタッフ・生徒ともに設立当初より大幅に増え、施設も充実しています。ガザは2008年の12月27日から始まったイスラエル軍の激しい空爆でぼろぼろになり、貧困状態にもあります。そんなガザでもこの学校の中は、別世界のようにきれいで楽しい空間です。「聴覚障がい者だからだとか、ガザだからだとかその限界を決めるようなことはしないで、『できる限りいい教育を』という思いで現地の人たちと協力をしてきた結果なのです。」と中村さんは語ります。
2009年8月には、農業事業にも取り組み始めました。中村さんは「まずは自分たちが食べる農産物を作れるようになることが目標ですが、さらに余剰生産物ができるようになれば、加工食品などを作ることも可能になるし、ガザの経済を活性化させる源にもなると思います」と言います。農業に関しても様々な可能性を追求していきたい思いがあふれていました。

制服を着て、先生と手話で会話するろう学校の生徒達
インタビューを聞いていて、封鎖されているガザ地区の方々や難民として一生を過ごす、パレスチナ難民の方の孤独が痛いほど伝わってきました。またそのような状況のなかで生きていく子どもたちに希望を届けていくにはどうすればいいかを、常に追求していくパレスチナ子どものキャンペーンの支援の姿勢が、うかがえました。その活動を今後も続けていくことによって、これからもパレスチナの方々を勇気づけていって欲しいです。
(JANICユース 総務チームリーダー 吉野宮奈)
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平和構築・難民支援 まとめて募金
保護が必要なこどもの生活支援 まとめて募金
NGO個別募金:(特活)パレスチナ子どものキャンペーン